【書評】イイトコ取りの「新自由主義」はカッコ付き―『「新自由主義」の妖怪―資本主義史論の試み』(稲葉振一郎著)
評価
★★★★☆
「新自由主義」を解説するというより、副題にある通り本書は「資本主義史論」である。読後に判明したが、「本書はウェブマガジン「あき地」の連載を大幅に加筆・修正したもの」らしい。なるほど、断片的には興味深い指摘がたくさんあるが、ひとつの視点から体系的に議論しているわけではない。したがって一気に読破してしまえるものの、読後感は「結局、何が言いたかったんだろう?」となってしまった。良くも悪くも「試み」なのだろう。
解釈・感想
「資本主義史論」としての明快さ
第二次大戦後の資本主義史論として眺めるとき、本書は最も輝きを放つ。というのも、単に「東西冷戦」あるいは「米ソのイデオロギー対立」で片づけられてしまいがちな冷戦期について、資本主義を軸に東西それぞれの思想的バックグラウンドを構図化しているからだ。簡単にいえば、その対立図式はこうなる。(ただし、上述したように本書は断片的に様々な情報が織り込まれていて少々錯綜しているので、以下に示す図式はあくまで私の解釈にすぎない可能性は大きい)
1970年代までの時期は、福祉国家思想VSマルクス主義的計画経済が顕著だった。しかしもう一つ、重要な対立図式があった。それが福祉国家思想VS新自由主義だ。マルクス主義が福祉国家を「資本主義の矛盾の先送りにすぎない」として「国家独占資本主義」だと批判したのに対し、新自由主義は福祉国家を「社会主義への滑りやすい坂」だとして批判する。というのも福祉国家とは政府の財政支出によって失業率・経済成長率を調整するマクロ政策に依存しており、「市場経済と計画経済の中庸、ベストミックスだ」と考えられていたからである。図式化すると、マルクス主義VS福祉国家思想VS新自由主義となる。
1970年代以降、オイルショックに端を発するスタグフレーションによる「福祉国家の危機」の時代が訪れた。これによって福祉国家思想が退場、さらにはソ連の崩壊によってマルクス主義が退場(資本主義を批判する理論としては残存したが、実践的理論としては退場)した。簡単に言えば、そこで生まれた間隙を埋めたのが新自由主義である、と単純明快な説明が可能になる。
本書を参考に作成
「新自由主義」はカッコ付き
ここでひとつ大切なことを付言しておかないと、大変な誤解を招くことになる。というのも、著者が本書において、上のような対立図式とともに最も強調しているのは、「新自由主義は理論でもイデオロギーでもなく、せいぜい「気分」程度のものだ」ということだ。どういうことかというと、社会主義体制が次々に崩壊し、マルクス主義という体系的イデオロギーが現実味を失うと、資本主義は「反共防波堤」としての対抗イデオロギーを必要としなくなるため、間隙を突いた「新自由主義」にはイデオロギーがない、ということになる。つまり古典派経済学的な市場経済重視の経済理論・政策をざっくりと「新自由主義」と言っているにすぎない、ということだ。確かに、著者が前半部分で論証しているように、「新自由主義」の盟主とされている経済学者(フリードマン、ハイエク)にはかなりのブレがあり、「主義」とされるほどのまとまりは無い。
雑感―「新自由主義」VS「マルクス主義者」?
そういえば最近、ヨーロッパではここ10年間ほど続いている緊縮政策に反対する社会民主主義が盛り上がりを見せていた。フランスではメランションという政治家が大統領選で善戦、イギリスではコービンという労働党党首が若者を中心にかなりの人気を集めている。彼らが口々に言っているのは「新自由主義はもうたくさんだ」である。ちなみにメディアでは彼らを「マルクス主義者」と表現することが多い。そこで本書から以下を引用しよう。
現代の一部のマルクス主義者は、ともすれば「新自由主義」を思想的な敵手として、現代の資本主義を正当化するイデオロギーとして捉えがちですが、それはわかりやすい敵を求める願望思考ではないかと私は疑っています。(p.301)
確かにメランションやコービンは「新自由主義」に悪のレッテルを張り付けて攻撃している。しかし一方で、メディアや著者も(?)、彼らに「マルクス主義者」というレッテルを貼っているのだから、結局どっちもどっちではないか・・・なんて思ったり。