【コラム】「ポッキーの日」―日本にポピーは咲かない?

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仲井成志(教養学部4年)

 国民的行事

11月11日といえば、何を思い浮かべるだろうか。おそらくほとんどの日本人は「ポッキーの日」と答えるだろう。

平成11年に江崎グリコが始めたキャンペーン「ポッキーの日」。今年は記念すべき20回目ということもあってか、いつも以上の盛り上がりを見せているように見受けられる。ためしにツイッターを覗いてみると、ポッキーの公式アカウントから11日0時のツイートを皮切りに、深夜早朝関係なく、おびただしい数のつぶやきが発せられている。もはや「つぶやき」どころではなく「大絶叫」だ。

もちろんハッシュタグ(#ポッキーの日)も存在しており、午後17時の時点では「おすすめトレンド」で堂々の第3位に鎮座している。

ポッキーの日に便乗してか、タカラトミー楽天イーグルスのアカウントまでがポッキー関連のツイート。企業だけではない。個人でもポッキーのイラストをSNS上に投稿したり、ポッキーをおいしそうに頬張る画像をアップしたりと、思い思いの楽しみ方をしているようだ。

経済効果がいかほどなのかは正確なデータがないのでよく分からないが、1年間で最もポッキーを売り上げる1日であることは間違いないだろう。ここまでくると、国民的行事とも言えそうだ。

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東大駒場生協にもご覧の通り、入口付近に堂々とポッキーコーナーが鎮座(筆者撮影)

 「ポッキーの日?ふざけるな!」

そんな国民的行事、ポッキーの日。しかし、私は手放しでその「記念日」を祝うことができない。なぜなら、こんな記憶がよみがえってくるからだ。

高校1年の11月11日、教室内では皆が皆、ポッキーを配り合っていた。和気あいあいと語り合いながら、空きっ腹に延々とポッキーを放り込む。高校生らしくかわいらしい、どこにでもありそうな日常の一コマ。

しかし、世界史の授業中に雰囲気が一変することになる。それは先生の、こんな一言から始まった。

「さあて、今日は何の日だ?」

みんなシャイだから答えようとしない。しかし教室内の誰もが、頭の中では例のアレを思い浮かべていたはずだ。なんといっても、口の中には甘いチョコレートの風味がまだ残っている。先生は眉間にしわを寄せて、明らかに不機嫌そうだ。理由は分からないが、これはまずい。防衛本能がはたらくのか、クラスメイトの視線がスーッと机に落ちていくのが分かった。

そのうち、前列にいた一人が指名されて、均衡を破らざるを得なくなった。小声で遠慮がちに、しかし背後からの圧倒的な支持を受けて、その生徒は絞り出すように答える。「ポッキーの日…」

先生は待ってましたとばかりに、怒鳴り声を上げた。

「なにがポッキーの日だ!ふざけるな!」

 

 日本にポピーは咲かない?

世界史の先生はなにも、本気で怒っていたわけではない。しかし、歴史を教える立場にあって、「ポッキーの日」に湧きたつ若者に少なからぬ違和感を覚えていたのだろう。なぜなら11月11日とは本来、第1次世界大戦の休戦協定が結ばれた、もうひとつの、そして歴史上大切な「記念日」だからだ。

当時の私はそれでも、やはりポッキーの甘い誘惑に負けていた。なぜなら1918年なんて相当昔の話だし、それに日本は直接ヨーロッパでの戦争に関わっていたわけではない。いわば、他人事だと思っていた。

それから5年。イギリスに留学した私は、とにかく驚いた。イギリスでは11月11日を「思い出す日(Remembrance day)」とし、国王や首相、著名人からメディアまで、第1次世界大戦の惨禍やもう一つの戦争、そして多くの血が流れた後でもたらされた平和をしみじみと「思い出す」。

そんな記念日を象徴するのが、ポピー(ひなげし)の花だ。ドイツ軍と連合国軍との間で激しい塹壕戦が繰り広げられたフランダースの野原に、真っ赤なポピーが咲きほこっているのを見て、心を打たれたカナダ人医師が詠んだ詩に由来する。

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フランダースの野に、ポピーの花々が揺れる

列をなして立ち並ぶ十字架の、その間に

(John McCrae "In Flanders Fields" より、翻訳して一部抜粋)

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10月末から記念日当日まで、老若男女を問わず誰もが、紙製のポピーのバッジを胸につける。戦没者を悼み、同時に平和の重みを共有する。

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紙製バッジ。新聞に写る人々の胸にも、同じバッジが付いている。(筆者撮影)

 

日本人にとってポピーは、ヨーロッパの大戦は、遠い世界の話だろうか?

第1次世界大戦のあとに平和を守ることが出来なかった反省と責任は、日本人とは無縁なのだろうか?

ポッキーの赤い包装に、フランダースの野に咲くポピーは連想されるだろうか?

11月11日は「ポッキーの日」だ。しかし同時に、第1次世界大戦の休戦記念日でもあることを忘れてはならない。さらにいえば、今年はちょうど100年記念日。私たち日本人も、ポッキーを食べながらでもいいから、過去を「思い出す」ことで人類の一員としての連帯を示したい。

そうすれば、あの世界史の先生のお怒りも、少しは鎮まるだろう。

【留学】人生変えた出会い―カナダでの「挫折」の先に

 

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「自分にとって、間違いなくプラスになったと思う」―留学をこう振り返るのは、昨年秋から約1年間カナダのトロント大学に留学した、教養学部4年の布施晴香さんだ。しかし、留学生活が平坦なわけではなかった。渡航から約2か月、「何かがプツリと切れてしまった」布施さん。異国の地での挫折を乗り切った先にたどり着いた、現在地とは―

インタビュー・文 仲井成志(教養学部4年)
 

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 トロントのシンボルを前に、友人と記念撮影=ネイサン・フィリップス・スクエアにて(布施さん提供)

運命的な出会い

 留学に興味をもったのは高校生のときだ。布施さんの周りには、夏休みを利用して海外でホームステイをする友人や、1年以上の留学をする友人もいたという。「高校生の自分にそんな勇気はなかった」としつつ、「漠然と、留学に行ってみたいなと思っていた」と振り返る。そんなとき、大学に交換留学という制度があることを知った布施さんは、「大学では行こうと、その時からずっと思っていた」

 大学2年生の10月、留学の具体的なイメージが浮かばないなか、留学経験者にアドバイスをもらおうと、本部国際交流課(本郷)に先輩を紹介してもらったという。「人生が変わった」―当時のことを懐かしそうに振り返る布施さんの顔がほころぶ。留学の相談に乗ってもらったのは、当時国際関係論コース4年生で、トロント大学に留学経験のある女性だった。「ほとんど説得されたような感じ」―国際関係論に関心があった布施さんは、多文化で多様性の高いカナダの話を聞くうちに、トロントで学ぶことを決心した。

 さらにもうひとつ、そのとき心に決めたことがあった。外務省に内定していたというその先輩が「とにかくカッコよかった」といい、「公務員なんて全く考えていなかったのに、自分も外交官になりたいと思った」

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先輩から話を聞いているときにとった思い出のメモは、今でも時々読み返すという(布施さん提供)

 

「初めて」の挫折

  教養学部の国際関係論コースに進学した布施さん。「外国の国際関係論を『内』から見たい」と、留学先のトロント大学では紛争解決やカナダの外交政策を学んだ。留学生として現地に身を置くうちに、「多文化共生」をうたうカナダ社会は「移民との『共生』ではなく『共存』によって、うまく成り立っている」ことに気付かされたという。

 中学時代から「何事も真面目にコツコツやるのが自分の良いところ」だった布施さん。しかしそれだけに、勉強や語学のハードルを高くしすぎてしまい、渡航から2か月が経過したところで、「何かがプツリと切れてしまった」

 「1週間、Youtubeを観て無気力に過ごしていた」と当時の状況を振り返る。そんなとき、久しぶりに『YELL』(いきものがかり)を聴いていると「色々溢れるものがあった」という。歌詞にある「ありのままの弱さと向き合う強さをつかみ、僕ら初めて明日へと駆ける…」というフレーズに、思わず胸を打たれた。「自分は自分でいいんだ、と気づくのに2か月かかった」。真面目にコツコツ―日本では決して曲げる必要のなかったその信念が、異国の地で生活するうちに少しずつ、柔らかくなった。

 カナダで初めての挫折を経験した布施さん。しかしそれを乗り越えた先に、前向きになった自分を見つけた。「悔いの残らないように、自分が本当にやりたいことに挑戦できるようになった」

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友人との食事風景。右列手前から2番目が布施さん(布施さん提供)

留学で見える「新しい世界」

  留学を経て成長を実感しているかを尋ねると、布施さんは「これからの自分次第」だとしつつも、「間違いなくプラスになったと思う」と語る。運命の出会いを経て、外交官を目指し始めた布施さん。留学直後には国連広報センター(東京・渋谷区)で3か月半に及ぶインターンシップに参加し、外交を間近に見ることができた。イベントの広報担当として記事の執筆を任されたといい、「やりがいを感じた」と充実の表情を見せる。

 「新しい世界をみることができる」―留学を考える後輩へのメッセージをお願いすると、布施さんはこう語った。「専門分野が決まっていない学部生のうちに留学すると、先入観なく色々なことを吸収できる」

 「留学にチャレンジできる環境にいるなら、ぜひチャレンジして欲しい」―大きな学びとともに、生活面での挫折を経て精神的に成長した布施さんならではの、重みのある言葉だ。

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国連でのインターンでは、日本のニュースをまとめて在ニューヨーク職員に伝える仕事もしていたという(布施さん提供)

【留学】幸せの「型」―気付かされた日本の異質さ

 

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「切羽詰まって生きなくてもいいんだ、と思った」―留学生活を振り返ってこう語るのは、昨年秋から1年間、オーストラリア国立大学(キャンベラ)で勉強した法学部4年の駒井恵さんだ。留学を機に、生まれてから約20年間過ごしてきた日本を飛び出し、当たり前だと思っていた日本での生活を初めて客観的に眺めることができた駒井さん。オーストラリアの人々の生き方に触れて浮き彫りになった、日本の異質さとは―

インタビュー・文 仲井成志(教養学部4年)

 

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緑に囲まれたオーストラリア国立大学のキャンパス(駒井さん提供)

 

行かなかったら、絶対に後悔する

 留学の動機を尋ねると、駒井さんは「話が長くなるかも」と笑った。きっかけは高校2年生のとき。「母から『留学してみない?』と聞かれた」と懐かしそうに振り返る。通っていた高校を退学し、海外の高校に留学するというプログラムの提案だった。「面白そうだな」とは思ったが、大好きなバレーボール部を離れるのが惜しく、日本にとどまる決心をした。「部活をやめるという選択は考えられなかった」とことわりつつも、「もし(留学に)行っていたら、(人生が)変わっていたかもな」と思うことがしばしばあった。そこで駒井さんは、こう心に決めた。「大学に入ったら、絶対に行こう」

 大学に入学してからの留学に対する気持ちの変化を、駒井さんは指で空になぞってくれた。固い決意のもと入学したものの、「(新しくできた友達と)離れたくないと思った時期があった」と振り返る。それでも、留学を経験した先輩から話を聞くうちに、入学当初の強い気持ちがよみがえってきたという。「行きたいという気持ちが少しでもある以上、行かなかったら絶対に後悔する」

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テルストラタワーにて、キャンベラの街並みをバックに=左から2番目が駒井さん(駒井さん提供)

 

「理論」と「実践」を学んで

 オーストラリアでは、日本を含むアジア太平洋の国際関係を学んだ。国際政治や平和のための外交に興味を抱いていた駒井さん。中学生のときに沖縄のひめゆりの塔を訪れ、戦争の悲惨さを痛感したのがきっかけだった。現地の授業は「(日本とは違い)歴史を深掘りしていく感じ」で、「かなり知識がついた」

 さらに課外活動として、キャンベラにある日本大使館インターンシッププログラムに参加した。リサーチペーパーを作成したり、日本やオーストラリアの外交官と懇談するなかで、外交の実践的部分についても「なるほどと思える気付きがあった」といい、「すごく貴重な体験だった」と振り返る。

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インターンシップ中には国会議事堂も訪れたという(駒井さん提供)

 

日本人の幸せの「型」

 駒井さんが留学中にもっとも強く感じたのが、日本人とオーストラリア人の生き方の違いだった。日本人は「中学から高校に進学し、浪人はできるだけせずに大学に入学、留年もできるだけせずに、横並びで就職する」という固定観念を抱いている、と指摘する。「何事もダブりなく、ストレートにこなすのが良いとされている」

 しかし留学早々、地域のバレーボールセッションに参加したときに、必ずしもそれが普通ではないことに気付かされた。高校卒業後2年間、すぐには大学に進学せずに、外国語の勉強をしながら学資を稼いでいるという男性の話を聞き、日本人との違いに驚いた。その男性以外にもギャップイヤー(高校と大学の「ギャップ」を使って自由に過ごす期間)を利用する学生は数多く、「(多くの日本人のように)切羽詰まって生きなくてもいいんだ、と思った」

 「(留学前は)意識しなかったが、日本ではこう生き方をしなければ『幸せ』とは言えないという『型』があると感じた」と振り返る駒井さん。それに対してオーストラリアは「とにかく自由だった」という。

 

なにごともプラスになる経験

 最後に、留学を考えている学生へのメッセージをお願いすると、「私は、迷ったけどやめて、あとから後悔した」と高校時代の自身の経験を引き合いに出し、こう続けた。「迷っているということは、行きたい気持ちがあるがあるはず。後から『行っておけば』と思うのは良いことではない」

 言語に自信がない、友達ができるか不安だと考える学生も多いだろう。しかし駒井さんは、そういった課題を解決する手段をも楽しみに変えられる、と指摘する。「たとえば英語が話せない、聞き取れないときは、どんどん話しかけるしかない」。日本ではあまりためにならないと感じるような雑談でも、海外では語学面での成長や異文化理解につながり、知らぬ間に自分の財産となる。

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帰国の際、見送りにきてくれた友人たちと=前列中央が駒井さん(駒井さん提供)

 

―駒井さんが言うように、「(留学しているときは)何をしてもいい経験になるし、何をしても自分にとってプラスになる」。日本の「型」から抜け出すためにも、留学という選択肢を考えてみてはどうだろうか。

 

【留学】「考える」ことを始めた日から―カナダでの「気付き」  

 

 

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 「自分の価値性を見つめなおすようになった」―留学生活をこう振り返るのは、カナダのブリティッシュコロンビア大学に1年間留学した、教養学部4年の藤田結さんだ。留学前は「自分は他の人たちと何も変わらないし、何も新しいものが生み出せない」と感じてしまっていたという藤田さん。異国の地で生活しているうちに、人生について深く、ゆっくりと考えるようになった。

インタビュー・文 仲井成志

 

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ブリティッシュコロンビア大学のキャンパスに国旗がはためく(藤田さん提供)

 

外国への憧れ

 「英語を頑張りたい、というモチベーションは中学生の頃からずっとあった」と振り返る藤田さん。英語に親しみをもつきっかけとなったのは、ドイツで生まれ育った2人の年下の従弟の存在だ。幼いころ、夏休みになると日本に遊びに来ていたという2人がドイツ語を話しているのを聞いて、大きな刺激を受けた。「自分が話せない言葉を話していることへの、憧れがあった」

 「英語が好きだった」という中学・高校時代。高校2年生のときには10日間の海外交流プログラムでアメリカのボストンを訪れる機会に恵まれた。現地の高校生との交流、さらにはハーバード大学マサチューセッツ工科大学の授業を見学していると「憧れが一段と強くなった」と同時に、しみじみと感じたことがあった。「日本では、外国人は珍しい存在だけど、アメリカには色んな人種の人がいて、外国にいるのに自分が『外国人』と見られるわけではない環境を、不思議に思った」

 

女の子なのに浪人?

  生まれ育った日本とは違う世界に触れて、海外への興味を抱いた藤田さん。大学に入ってから「学問的にもっと深めたいと思う分野に出会った」ことが、海外留学の決め手になった―「女性の権利」だ。このテーマに関心を抱いたきっかけは、高校卒業後の友人との会話だった。再受験に向けて予備校に通うことを決めた藤田さん。周りには志望校ではないものの進学を決意する友人が何人かいたといい、「(彼女らが言っていた)その理由が、『女の子だから、浪人しないほうが良い』ということだった」

 東大に入学してからも、女子学生の少なさに問題意識を持った。そういった関心が「色々つながってきて、もっと深めてみたいと思ったし、将来的にも女性のエンパワーメントに携わることができたら、と思うようになった」。そして次第に、ジェンダー論をより深く勉強できるカナダへの留学を意識し始めた。

 

「考える」ということ

  留学早々、授業を受けているとひしひしと感じたことがあったという。「習ったことを知識として覚えるだけ、というのが今までの自分の勉強スタイルだった」と振り返ったうえで、カナダでは「習った知識を応用する力や、現実社会での実践について自分で『考える』ことが重視されている」ことに気が付いた。

 日本ではインプットしたことをそのままアウトプットすればよかったが、留学中に「考えるということの大切さを知った」と語る藤田さん。留学で初めて独り暮らしを経験し、「人に頼ることのできない環境」に身を置いたこともあって、授業の枠を超えて人生や将来のことなど、「自分のことを深く考える時間ができるようになった」という。

 漫然と周りの学生と同じような道を歩んでいたために、個性が埋没し「社会に価値を提供できない」と考えてしまっていた留学前。しかし今では「明確な答えが出たわけではないけど、1段階、何かを乗り越えられた気がする」

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グループワークをしていたクラスメイトに誕生日を祝ってもらう藤田さん=右から3番目(藤田さん提供)

 

想定外の気付き

  「考える」ことを意識し始めたことで、学問においても留学前には想定していなかった「気付き」があった。ジェンダー論の専門知識を獲得することを留学の目標にしていたが、「知識をためることよりも、それをどう生かすかが大事」と思うようになった。

 さらに、アカデミックな視野も広がりを見せていた。留学前は学部で専攻している国際関係論が「女性の権利とは関係ないと思っていた」と振り返るが、カナダで『人権の歴史』という授業を受けるうちに、国際人権法に関心を抱くようになった。「漠然と持っていた自分の興味(女性の権利)と、(専攻する)国際関係論とのつながりを見いだせたことが、留学の収穫」と、充実の表情を見せた。

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 ブリティッシュコロンビア州の州議事堂前の噴水。中央にうっすら虹がかかる=ヴィクトリアにて(藤田さん提供)

―果たして、東大生は日頃から「考える」ことを実践しているだろうか。中学・高校・大学と、周りの空気に流されて漫然と生活してきた人も多いのではないだろうか。自分の人生や将来について「考える」機会は、留学に限らずたくさんある。しかし、日本というある意味「異質」な空間を出ることで初めて、藤田さんのように新たに気が付くことがあるのもまた、間違いない。

【留学】脱「ぬるま湯」へ―勇気をもって飛び込まないと

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 「帰ってきてから、日本が息苦しく感じてしまう」―イギリス・サウサンプトン大学での1年間の留学を振り返ってこう微笑むのは、大谷恵彩さん(仮名・経済学部4年)だ。「解放感があった」というイギリスでの生活を懐かしむ大谷さん。しかし、留学当初はイギリスでの生活になじめず、苦労したという。

インタビュー・文 仲井成志(教養学部4年)

 

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イギリスの曇天に綺麗な虹がかかる=サウサンプトン大学のキャンパスにて(大谷さん提供)

 

ぬるま湯から脱したい

 大谷さんが海外留学を意識し始めたのは、中学生時代まで遡る。学校の海外研修プログラムでアメリカ・サンフランシスコにある姉妹校を訪問した際、「コミュニケーションがうまくできず、悔しかったし、衝撃だった」と思い出を語る。アメリカ人の生徒とペアワークを通じて交流している時も、「相手が何とか私に通じるように努力してくれているのが分かって、申し訳なかった」という。その経験が「英語を話せないというコンプレックスになった」

 高校時代には英語ディベート部にも入ったという大谷さん。意識していた海外留学が現実味を帯びたのは、大学に入り駒場で生活していたときだった。2年間の学生生活を経て、「得たものが何もないのではないか」と感じてしまったという。「日本の大学生活はゆるくて、悪く言えばぬるま湯に浸かっているような感じ」

 ぬるま湯から脱したい。その一心で、大谷さんは「勢いで(留学に)応募して、行かざるを得ない状況をつくった」

 

環境を変えるだけでは 

 「渡航して早々、ホームシックになってしまった」と語る大谷さん。「生ぬるい生活」から脱しようと決意していたものの、英語でのコミュニケーションの難しさは想像以上だった。フラットメイト4人で食事したときには、「半分しか理解できず、会話についていけなかったし、日本の話を振られても思うように答えられなかった」といい、内気になってしまった。そんな初めの頃は「ただただ辛かった」という。

 それでも、1か月ほど生活するうちに、心境に変化が訪れた。「ただ留学するだけじゃ何にもならないと気づいた」と大谷さん。「環境を変えるだけでは何も変わらないし、時間が経てばいいというものでもない」。勇気を出して様々な活動に積極的に参加しなければ成長できない、と思い始めた。

 

英語を話す楽しさ 

 それ以来、大谷さんは自分から積極的に話しかけるようになったという。留学生の交流イベントに1人で顔を出した際にはオランダ人やドイツ人の女性に囲まれ、苦戦しながらもクイズ大会で盛り上がった。さらには友人から紹介してもらったという剣道サークルにも参加するようになった。剣道経験者でもある大谷さん。初心者の学生に英語で基礎を教えることもあった。

 授業のオリエンテーションで出会ったというポーランド人の女性とは特に親密になり、彼女と深く付き合ううちに「コミュニケーションがとれる楽しさを実感するようになった」

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イースター休暇中、ポーランドの友人を訪ねてワルシャワへ=世界遺産の旧王宮(大谷さん提供)

 

遅れてやってきた「成長」 

 大谷さんの成長は、心理面と英語力だけに限らなかった。「東大では人に頼ってばかりいて、主体的には取り組まなかった」という学業も、イギリスでは「全部自分でやらなきゃ、という覚悟をもって勉強した」。留学当時はあまり成長を実感できなかったが、帰国して経済の授業を受けるうちに「より高い視座で俯瞰できるようになっている」ことに気付いた。留学前にバラバラに見えていた知識も「点と点がつながるように理解できるようになり、授業が楽しくなった」という。

 最後に、留学全体を振り返ってもらうと大谷さんは「最初が辛かった分、あとは全部楽しかった」と充実の笑顔を見せた。現在は外資企業も視野に就職活動に励んでいるという。留学を経て大きく成長した大谷さんの更なる飛躍が楽しみだ。

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「イギリスの食事はまずいと思わなかった」という大谷さんは、よくパブで食事をとっていたという=マッシュポテトとパイ料理(大谷さん提供)

【コラム】移民と「もうひとつのイギリス」

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仲井成志(教養学部4年)

移民社会イギリス

イギリスには移民がたくさんいる。日本人がパッと思い浮かべるイギリス人のイメージといえば、なんとなくモーニングに身を包んだ上背のある白人男性―いわゆる英国紳士―ではないだろうか。しかし、そんな妄想は時代遅れだし、ナイーブだ。実際に統計を眺めてみると、2017年、イギリスには外国生まれの人口が940万人。イギリス全体の人口が約6500万人であることを考えれば、単純計算で7人に1人が外国生まれ。どうだろう、想像以上に多いと感じたのではないか。

「もうひとつのイギリス」

筆者が留学していたのは、「ノースイースト(北東)」と呼ばれている地域にある大学で、経済的には国内で最も貧しいとされている。移民はどうかというと、外国生まれ人口の地域別比率でみて、北アイルランドを除いて最低の2%にとどまる。たしかに、現地では大学のキャンパスを出ると、あまり多様性を感じることはなかった。

一方で、ロンドンの比率は36%で、これは2位「サウスイースト(南東)」の13%を大きく引き離し、圧倒的な集中率だ・・・。そういえば、部活の遠征でロンドンを訪れたとき、世界を代表する大都市が抱える「ゆがみ」を実感したことがあった。

部活のメンバー5人で夜のロンドン郊外をふらふら歩いていた時だった。背後で女性の金切り声が聞こえ、思わず振り返ると、ビール瓶を片手に数人が大声で喧嘩をはじめていた。彼女らが早口でまくしたてているのは、明らかに英語ではない。私以外のメンバーは全員、イギリス生まれイギリス育ちだったのだが、そのうちの1人であるジャックが、少し口元をゆるめて、私にこうささやいた。

「ほら、これが君の知らないもうひとつのイギリスだよ(You see, this is the other side of Britain you don't know)」

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 ロンドンの曇り空の下には、「もうひとつのイギリス」がある=筆者撮影

「敵対的な環境」

ジャックが言う「もうひとつのイギリス」に対して、イギリス人がどう感じているのかというと、あまり心穏やかではないようだ。歴史的には戦後の労働力不足の解消のため、カリブ海諸国から大勢の移民を受け入れたものの、移民への差別が横行。1968年にはある国会議員が「血の河演説」でもって移民の増加に警鐘を鳴らしたほどだった。

今日はどうだろう。記憶に新しいのはブレグジットだ。EU離脱キャンペーンにおいて、議員や活動家は移民の脅威を強調することで、労働者の恐怖心をあおっていた。実際に「移民問題」が国民投票において大きなファクターとなった、とする調査結果も出ている。

ついでに言うと、2018年には、内務省(Home Office)が移民制限ターゲットを設けて、合法移民を半強制的に母国に帰らせる政策を行っていたことが判明し、「(移民に対する)敵対的な環境(hostile environment)」だとか「ウインドラッシュ・スキャンダル(戦後のカリブ海の移民がウインドラッシュ号に乗ってやってきたため、彼らをウインドラッシュ世代と呼ぶ)」という言葉が新聞紙上を賑わせた。最終的には内務大臣(Home Secretary)が辞任するほどのスキャンダルとなった。

となると、「血の河」のような優生学的な言説はもちろん消えていったものの、イギリスには未だに「敵対的な環境」が残存しているとみていいだろう。実際、メディアやSNSでは「移民が仕事を奪う」とか「移民が犯罪を起こしている」という言説をよく目にする。

ブレグジットを経て、「もうひとつのイギリス」はどうなってしまうのだろう。「敵対的な環境」がさらに勢いを増し、「もうひとつのイギリス」がさらに遠くに押しやられて、ついには「誰も気にしないイギリス」になってしまうのではないか、と心配している。

【留学】「日本から出よう」―アメリカで訪れた人生の転機

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 留学を経てどのような変化があったか、との質問に「基本的には、(日本から出て)アメリカかカナダに移民することにした」と語るのは、昨年秋から1年間、アメリカのワシントン大学に留学した教養学部4年の伊澤涼さんだ。留学前は「ゆるく公務員志望くらいだった」という伊澤さん。アメリカでの刺激的な生活を送るなかで、少しずつ、着実に、人生観が変化していった。

インタビュー・文 仲井成志(教養学部4年)

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シアトルのビル群に夕陽の光が降り注ぐ(伊澤さん提供)

 

日本とは異なる「人種」観

 留学を決めたのは、「日本ではあまり進んでいないが、アメリカは圧倒的に強い」という社会学、とくにジェンダー論を勉強するためだ。ジェンダー論に興味をもったのは、大学1年の冬に映画『ミルク』(2008年)を観たことがきっかけだったという。1970年代のアメリカで、ゲイであることを公表し当選した政治家の半生を描いたドキュメンタリー映画だ。「当時は学問的に研究してみたいとは思っていなかった」と断りつつも、「どうして日本とアメリカで、ゲイの描かれ方がこんなにも違うのだろうと思った」といい、「(今から思えば)後々まで自分に影響があったのかな」と振り返る。

 アメリカに渡ってフェミニズムを学び始めた伊澤さん。「想定外だった」と語るのは、「『フェミニズム』という授業の内容の9割が、人種についてだった」ことだ。たとえば、白人女性と黒人女性では抱える問題や、社会での扱われ方が大きく異なる。しかし移民が少ない日本では「人種が見えないものにされている」

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シアトルは「ずっと小雨が降っているような感じだった」という=ワシントン大学の図書館(伊澤さん提供)

 

性別で判断されない空間

  人種について意識させられたのは、教室の中だけではなかった。LGBTのコミュニティを運営する団体で1か月間インターンしたという伊澤さん。イベントの企画や運営・宣伝に携わるなかで足を運んだゲイバーで、「すごい空間」を目の当たりにした。

 「見た目からは、性別が何で、性的指向がどうなのかが分からない。誰もが究極的に『個人』に還元された空間だった」。しかし、性別や性的指向を意識する必要がなかった分、人種の違いが浮き彫りになって「自分がアジア系であることを強く意識させられた」と振り返る。もともと、ワシントン大学があるシアトルにはアジア系移民が多い。それだけに、ゲイバーという特殊な空間では、普段は意識することのなかった人種について考えさせられたという。

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伊澤さんが足を運んだゲイバーの壁面には“I know you’re queer, but what am I?”と書かれている(伊澤さん提供)

 

とにかく、日本から出たい

  留学前、就職については「ゆるく公務員くらいしか考えていなかった」という伊澤さん。しかし、人種が多様でLGBTなどのマイノリティにも寛容なシアトルで生活しているうちに、将来的にはアメリカかカナダに移り住むことを本気で考えるようになった。移民という選択肢は「留学前も少しは考えていた」というが、「自分に本当にできるのか、自分が本当にやりたいことなのかが分からなかった」。シアトルでは、ビジネスに打ち込む人や起業した学生が数多く、彼ら/彼女らと交流する中でも、その自由な雰囲気に「かなり刺激を受けた」という。そんな中で少しずつ、移住という大きなビジョンを描くようになった。

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メキシコ旅行の際に撮影(左から2人目が伊澤さん)=グアナファトにて(伊澤さん提供)

 

留学で「留年」、不利益?

  大きな目標の達成に向けて、伊澤さんは既に大きなステップを踏み出した。6月末に帰国してすぐに就職活動をはじめ、見事に外資系戦略コンサル会社に内定、「2023年くらいには日本を出て、それからはもう帰って来ないくらい(の気持ち)」と将来のビジョンを描く。

 最後に留学を考えている後輩へのメッセージをお願いすると、「歳を重ねてから海外に行っても、自分の殻に閉じこもりきりになる可能性がある。早いうちに行ってみるのがいい」と語った。さらに、留学によって、卒論や就職活動の関係で留年する学生が多いが、「留学して就活が1年遅れるからって、別にディスアドバンテージになるとは思わない」

 

―留学を機に、人生観が大きく変わった伊澤さん。留学先で何が起こるのか、そして自分がどう変わるのかは予測不能だ。しかしだからこそ、留学は狭い視野を拡げ、殻を破る大きなチャンスでもある。