【コラム】きんもくせい
この前の朝、目覚ましアラームを消してからしばらく、寝ぼけながらも身体全体を首元まで毛布でおおって、無為にごろごろとしていた。アラームが再びリンリンと鳴り始めてようやく、急ぎ学校へ行く準備をしなければならないことに気付いた。かぶっていた毛布をいやいやながらはねのける。その時、ふと思った。あ、毛布に愛着が湧く季節だ・・・
記録的な猛暑はどこへやら、最近めっきり冷え込んだ。1週間前とくらべて生活もガラッと変わってしまった。夏のあいだ愛用していた部屋着の短パンをしまい、長ジャージを引っ張りだしてきた。外出用の服装もすっかり秋冬仕様だ。朝ごはんのおともにはフルーツジュースではなく温かい紅茶をいただく。お風呂の温度を2度も上げた。外を歩くときは手をポケットにしまい込むし、マクドナルドのアイスコーヒーは氷を抜いてもらう。これ、「アイス」コーヒーじゃないな、なんて思いつつ、なんだか秋を通り越して冬になってしまったような気がして、少し寂しくなる。
写真=窓が結露していたから、「書初め」してみた。
しかし、駒場キャンパスで「秋」を感じる瞬間があって、ホッとした。1号館を左手に、授業がある8号館に向かって歩いていた時のことだ。雨のしずくの間を縫ってそよそよと風が吹いたと思ったら、それに乗って甘い香りがふわっと漂ってきた。きんもくせい。ふと周りを見渡してその「正体」を探し出そうとするが、見つからない。それもそうだ、きんもくせいは奥ゆかしい存在。ずかずかと人の前に出てくるものではない。
そういえば、三島由紀夫がきんもくせいについて、印象的なことを書いていた。夕闇にうっすらと浮かぶ美しい女性の顔を、そのうっとりとするような香りにたとえている。
それ〔女性の顔〕は夜の小径をゆくときに、花を見るより前に聞く木犀の香りのようなものである。(『奔馬』216-217項)
さすが三島といったところか。感服だ。ちなみに、小説内でこの女性を「見た」のは勲という青年だ。このあと、こう続く。
勲はそういうものをこそ、一瞬でも永くとどめておきたい心地がしている。そのときこそ、女は女であり、名づけられた或る人ではないからだ。〔中略〕存在よりもさきに精髄が、現実よりもさきに夢幻が、現前よりも予兆が、はっきりと、より強い本質を匂わせて、現われ漂っているような状態、それこそは女だった。(同217項)
古語の時代から「おくゆかし」さを重んじる日本人だからこそ、きんもくせいにも、より魅せられるのだろうか。授業に遅れてはいけないと早足で歩きながら、駒場のきんもくせいの香り感じて、そんなことを思っていた。
写真=101号館(なんて聞いたこともない人が多いのではないだろうか。1号館とコミプラの間にある建物だ)前に咲くきんもくせい。
ちなみにどうして「きんもくせい」とひらがなで綴っているのかというと、完全に筆者の好みである。金木犀だと固いし、キンモクセイだと型張りすぎていて、せっかくの奥ゆかしさが台無しだ。やはり「きんもくせい」が一番しっくりくる。
(仲井成志・教養学部4年)